和歌アレコレ〈万葉集シリーズ〉


あしひきの 山のしづくに 妹待てば 我立ち濡れぬ 山のしづくに

大津皇子 巻二・一〇七



大津皇子は、天武天皇の皇子です。

日本書紀には『容止墻岸、音辞俊朗(ようししょうがん、おんじしゅんろう)』「立ち居振る舞いが尊く、言葉は優れていて明朗である」と記され、才能豊かで自由奔放、容姿も良く人望も厚いとあっては、身分の高さと相まって、多くの女性が彼に夢中になったはず。

しかし、そんな完璧ともいえる大津皇子だからこそ、異母兄である皇太子草壁皇子とその母鵜野讃良(うのささら。のちの持統天皇)にとっては、次期天皇の座をおびやかす脅威となっていました。

実は大津皇子、草壁皇子とは恋のライバルでもありました。

相手の女性は、石川郎女(いしかわのいらつめ)という奈良時代の女流歌人です。

上記の歌は、その石川郎女との相聞歌。相聞歌とは恋のやり取りの歌です。

『あなたを待っているうちに、山の滴で濡れてしまったんだ。そう、山の滴に濡れるほど、待っていたんだよ。』

といった意味でしょうか。「あしひき」は山にかかる枕詞です。

万葉集にはこの大津皇子の歌のすぐ後ろに、対となる石川郎女の歌がのっていて二人が恋仲だったことがうかがえます。

この歌の解釈は、「モテモテの大津皇子に待ちぼうけを食らわせるほどの女の子がいた!」という捉え方をされがちなようです。

しかし、私はちょっと違うスタンスを支持したい。

当時の恋愛・婚姻事情は、基本的に男性が女性の家に尋ねる形式です。

だから待つのはほとんど女性になります。万葉集にも多くの待つ身の辛さを訴えた歌がありますし、古今集や源氏物語などにもその様子は描かれています。

でも、よく考えてみてください。天皇の皇子である大津皇子ほどの人が恋人と会うために滴に濡れてしまうような山で待たなくてはいけない。そんな状況は何だか不穏な感じがします・・・

そう、大津皇子を亡き者にし、天皇の座を盤石にしたい草壁皇子親子の勢力からの監視があったと考えることができるのです。

実は、草壁皇子が同じく石川郎女に贈ったとされる恋の歌も残っています。しかしこちらには石川郎女からの返事はありません。

草壁皇子は体も弱く、容姿も文武も、皇位継承権以外の全てで大津皇子にはかなわない。

草壁皇子が好きになった女の子までも、大津皇子がかっさらっていくのか!と、母である鵜野讃良は思ったことでしょう。

かわいい息子を守るため、大津皇子を監視し、失脚させるチャンスを伺います。

結果的に大津皇子と石川郎女の恋は、愛し合っているにもかかわらず人目を忍ぶものになってしまったのかもしれません。

大津皇子を濡らしたのは、山の滴だけではなく、涙の滴だったとしたら―――。

――大津皇子はこの後、皇太子草壁皇子への謀反の罪を問われ、二十余年の命を散らせてしまいました。




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私が初めて物語の中で大津皇子と出会ったのは、小学校三年生のとき。

思い起こせば、私の初恋は大津皇子かもしれない。

○○君ってかっこいい!みたいな、友達の延長みたいな好きは、それこそ保育園の時からあったけど、誰か男の人を想って涙したのは、だって大津皇子が初めてだったもの。



次回は、大津皇子の歌と対になっている石川郎女の歌をご紹介したいと思います。